「震災時に虐殺を行った警備部隊には、義兵戦争最大の激戦地に派遣されていた騎兵連隊がいくつもありました。自警団には、植民地戦争帰りの在郷軍人がいました。
一般民衆は、植民地戦争を郷土部隊の朝鮮駐屯という形で経験し、地元紙を通じて朝鮮人=「反日暴徒」「不逞鮮人」という、植民地主義的な朝鮮人像を「銃後」の社会で内面化していったのではないでしょうか。
震災時の虐殺は植民地戦争の延長線上にあります。その本質に迫るには、植民地戦争の国家犯罪全てと関連させ、捉えることが重要です」
「世界史では近年、植民地での軍事的暴力とそれへの現地の人々の抵抗を「植民地戦争」と呼ぶようになっています。特徴は主権国家同士の戦争とは違い、弾圧側と抵抗側の武力の差が圧倒的に大きいことで「非対称な戦争」です。そのため支配側によるジェノサイドが頻発しました。
日本は日清戦争(1894年) 以降、ほぼずっと戦争をしてきました(年表) 。植民地を防衛するため、民族運動に軍事力を行使し続けてきました。そのための理論と手法がつくり上げられました。
その一つが「殲滅(せんめつ) と連座」です。甲午(こうご)農民戦争では、農民軍を「ことごとく殺りくすべし」という大本営秘密命令を出しています。「責任ある村は焼き払い、その民は撃殺すべし」という指示も出していました。
内外から批判が出ると「やむなく発砲」「正当防衛」という理屈で、殺害を正当化していきました。
こうしたやり方は日本の植民地支配に抵抗した義兵戦争や三・一独立運動、間島(かんとう)虐殺などでもくり返されました。
間島虐殺の3年後に起こったのが、関東大震災時の虐殺です」