「1201年、トゥースのシーア派十二イマーム派の法学者であったムハンマド・ブン・アル=ハサン・トゥースィーの子として生まれた。トゥースィーが後年、著作で述べていることによると、年少時代は郷里トゥースで父や母方の叔父から直接十二イマーム派のアラビア語学やイスラムの聖典クルアーンやハディース学といった宗教諸学について修め、父と親交があったカマールッディーン・ムハンマド・ハースィブから数学を学んだという。さらなる学問の研鑽を志し、青年時代にはニーシャープールに移りイブン・スィーナーの系統に属す逍遥学派のアリストテレス哲学、論理学、医学をファリードゥッディーン・ダーマード・ニーシャープーリーやクトブッディーン・ミスリーから学んだ。」
ナスィールッディーン・トゥースィー - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%A3%E3%83%BC
「1220年にチンギス・ハン率いるモンゴル帝国軍がマー・ワラー・アンナフルに侵攻し、6月にはジェベがホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドを追ってニーシャープールへ到達。」
「トゥースィーはモンゴル帝国のフレグがイラン地域を征服しに来た時、アラムートのニザール派第26代教主アラーウッディーン・ムハンマド (ムハンマド3世)と第27代教主ルクヌッディーン・フルシャーによってアラムート近傍のマイムーン・ディズという城塞に幽閉されていたことが知られている。」
ナスィールッディーン・トゥースィー - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%A3%E3%83%BC