確か『見捨てられる<いのち>を考える』に書いてあったことだと思うけれど、「老いるということはQOLが下がるということだ」という内容の文があり、ここ数年祖父母の見守りとして定期的に帰省している身としては、まさにと感心した。そして中井久夫が過去に書いた文を集めた『「つながり」の精神病理』には、補聴器、老眼鏡、入れ歯への言及があり、尚更考えさせられた。インバウンドで日本にやってくる人たちの中で、補聴器を付けている人を何人か見かけたことがある。車いすで来る人もいる。日本のアクセシビリティ対応の低さ、とりわけバリアフリーに関する無関心さを彼らはどのくらい知っているのだろうか。
そして一体どこの国から来たのか聞いてみたいと思うことが多々ある。
私は作業しやすいという理由で、未だにやむにやまれぬときにスターバックスを使っているのだけれど、あるスタバで耳の聞こえない(手話ユーザーと言い換えるべきかもしれない)キャストがいて、簡単な手話ならできるので、手話か筆談で色々オーダーしていたのだが(トールのアイスコーヒーをグランテカップに入れて、ミルクをグランテの位置まで入れてください、氷は少なめにしてください、氷の分はコーヒーを多くしてください、などは指差しでは賄えない部分なので)、ある時そこのスタッフには手話ができる人が多いのに気づいた。簡単なやりとりだけれど、手話を使っている。彼らは集められたのか、それとも学んだのか。
上手く言えないのだけれど、これが「折り合いをつけながら暮らしていく」ということなのではないかと感動した。”健常”な者同士でもできないことを当然のようにやっていく。手話は国際的に似た動きが多いので、日本語手話でも会得すると色んな人と話ができるので興味がある人は、学ぶのをおすすめしたい。当事者の人がいる教室に行ければ、なおよい気がする。