「B29から『ヒュー』と焼夷(しょうい)弾が落ちてきて、近くにあった二つの工場が丸焼けになったんです。父はその一つの工場長でした。翌朝、無事に帰ってきて『たった一度で見事なもんだ』と話すんです。それで僕は(もうアメリカには勝てないと思って)『あーあ』って落胆したの」
「ほどなく終戦。これを境に、軍国主義教育だった学校の雰囲気が一変したのを感じたという。「先生が『民主主義っていいもんだな』なんて言うんです。つい最近までは『死して護国の盾になれ』と教えていたのに、よく恥ずかしげもなく口にできるなって思うと、もうムカムカしてね」」
「のっぽさんが戦争への思いを語るようになったのは、戦後70年前後のことだった。「政治家が『愛国心』や『道徳教育』を口にするようになった。愛する国のためにどうすればいいのかを勉強するなら分かる。でも愛する国のために犠牲になることを教えるなんて、冗談じゃない」」
「小さい人」をだますな 優しいのっぽさんの静かな怒り 感じた現代の"きな臭さ" #戦争の記憶 - 未来に残す 戦争の記憶 - Yahoo! JAPAN https://wararchive.yahoo.co.jp/wararchive/mai4.html
「兵役に就いていた12歳上の兄から届いた手紙が忘れられないという。近況を知らせる内容だったが、文面に打たれた傍点をつないでいくと『とっこうたいにしがん』(特攻隊に志願)と読めた。空を仰ぎ、『兄ちゃんも国のために死ぬんだな。しょうがないな』と思った。兄は結局、ソ連の捕虜になりシベリア抑留。戦後に帰還したが、両親から後に『抑留中、わざと重い石を落として足を折って重労働を避けていた』と聞いた。『やっぱりつらかったんでしょう。90歳過ぎに他界したんですが、最後まで当時のことは言わなかったですね』」
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