この本の「おわりに」で、人の記憶をどう扱うかという話が書いてあるのだけれど。この一年間ずっと考えている「記憶を話す」「人の記憶に沿う」と言うことについての話で、ここに書いてあることをもう少し落とし込みたい。
この一年間、AC(アダルトチルドレン)と発達障害の当事者会に参加していて、ACの当事者会に参加している人たちは、毒親との同居から逃げてきた人ばかりで(少なくとも私はそこではそういう人にしか会ったことない)、過去の記憶をシェアしあうのだけれど、その寄り添い方について色々考えていた。
基本的には「言いっぱなし聞きっぱなし」なのだけれど、たまにこちらに「これってどう思うか」と聞かれたり、私はその中では「言葉をたくさん持っているほう」なので、「スカッと何か言ってくれること」を求められていると感じることが多々あって、それをやってしまったことも沢山あるのだけれど、それをもうずっと反省している。
そもそも「言葉をたくさん持っているから」と安易に言葉をまとめること、というのは件の「資格保持をしているファシリテーター」とやっていることにそこまで差異はないと感じてもいる。でも、そういう時にどうしたらよかったのか私は今でも分からない。オープンダイアローグのリフレクティングを体験したいと思ったのも、その反省からくるものだったりする。
けれど、その場で「スカッと」したい人達、自分の感じていたことに何か言葉があるのか知りたいという人たちにどうしたらいいのかよかったのか。何かあった時に「カンミさんが言ってた」というリスクが頭に浮かぶ中いつもやっていたけれど、そんなこと言い訳にしかならないのではないかということを今年に入ってからずっと考えていた。#かたまらないまま生きている
そもそもこの書いていることが、読んでいる人にちゃんと伝わるかもわからないけれど。何らかの解決策だったり、体験を持っている人はこっそり教えて欲しい。